Durandによる分類では以下のように分けられる
①要求:事物の呈示や行為実現による正の強化
「ほしい,やりたい」
②注目:注目などの社会的強化による強化
「みてみて,かまって」
③逃避:課題や場面からの負の強化
「いやだ,したくない」
④感覚:身体的感覚などによる強化
※平澤・藤原(1997)参照
注目を獲得するために人は行動を繰り返すこともある。もちろんある課題から逃れたいという逃避であったり、リストカットなどぞわっとする感覚が味わえるなどの機能を有している場合もある。ここでは注目にしぼって話をすすめていきたい。
問題行動を起こす患者さんについてある人と話し合っていたときに、ふと「注目されない側にも問題があるんじゃないか?」という言葉が頭に浮かんできた。
いじめの問題ではよく出てくる問答である。「いじめられる側にも問題があるんじゃないか?」
3~5歳の子どもがかまってかまってと親・看護師の前で床に寝転ぶなど問題行動を起こす場面を想像すればまだ可愛らしいと思える。これが30~50歳の男性だと想像することすら躊躇ってしまう。
床に寝転ぶだけで足りなくなった3~5歳が抱きついてきたら?お尻を触ってきたら?看護師とて許容範囲はあるので、このあたりで怒り出す人がいるかもしれないし、それでも可愛いと言う人もいるかもしれない。しかし、30~50歳の男性が抱きついてきたり、お尻を触ってきたら、ほとんどの看護師は拒絶し嫌悪を感じるだろう。
こういった嫌悪があるとやはり注目されない側にも問題というか要因はあるのではないか?と思ってしまう。しかし、行動療法ではそういったとらえ方はしないのである。個人攻撃の罠に陥ってしまうことから、機能分析から問題行動の背景を捉えていき、対策を考えるのである。
患者さんの問題行動の背景には、問題行動によって注目の機能が獲得されることがある。
誰でも暇なときには刺激が欲しいだろう。刺激が足りなければ、どこかで満たそうとする、それはそれで人間らしく美しいとも思う。
ただ傍観していても当事者にとっては大問題であると思われるので、応用行動分析を用いて問題行動の修正を行っていくのが、認知行動療法的方略である。
少し脱線するが、私も中高生など暇で何をしたらいいんだろうというときに、バンドに誘われて人前で演奏する機会をもらったときの刺激は最高だったなぁ。注目はある人にとっては嫌子になるかもしれないし、特定の相手だけの注目でないと機能しないこともある。少し目立つことをやり出した私は、それから髪型を他の人と違う感じにした。ビジュアル系が流行っていた時代だったので、グレイやラルクくらいの髪型を目指して毎朝ワックス・ジェルを友に奮闘した。

それで自分のことを良く知っている人にはあたたかい目で見られてよくみんなが声をかけてくれた。「今日もすごいね」「どうやってるの?」とか。上級生・教師には冷ややかな目で見られてよく叱られた。教師から見れば問題行動だと言われるだろうけど、やはり当の本人からすれば問題ではないと思っているし、教師をあまり良く思っていなかったので、聞いたふりをして逃げていたことがしばしばだった。
今思えば注目以外にも「自分はひとりぼっちだ」という思いからの逃避もあったと思う。その当時は決してひとりぼっちではなかったのだが、若かったのでそういった歪んだ認知が色濃く生活にこびりついていた。だから良く知っている人に声をかけられるという好子が最高に心地よく、叱られるという嫌子よりも有意に働いた。
こういった注目行動は思春期という文脈では社会的に理解できるのである。これが30~50歳くらいでやっていると、少し別の目でみられてしまう。
患者にとって適切な注目が得られるようにアセスメントし介入するのが看護師の役割の一つなのではないかと思う。そうすることによって問題行動は減っていくだろうし、個人攻撃の罠に陥らず、患者さんを尊重しながら関わっていくことが可能になるのではないかと思う。
注目を得ようとして問題行動を起こす患者さんに対して気持ち悪いなと思うときがあるかもしれない。それは人間なので仕方ない。しかし患者さんの側面に注目ばかりしても解決には至らないし、嫌々な仕事になってしまうので、行動の機能をしっかり分析し、その患者さんはどのような機能でその問題行動が維持されているのかを考え、患者さん・家族・スタッフとどのように行動を修正していくか考えていく、というのがやはり看護師らしいのである。我慢するのではなく、本質を見極めるということが重要である。
問題行動を起こす患者さんについてある人と話し合っていたときに、ふと「注目されない側にも問題があるんじゃないか?」という言葉が頭に浮かんできた。
いじめの問題ではよく出てくる問答である。「いじめられる側にも問題があるんじゃないか?」
3~5歳の子どもがかまってかまってと親・看護師の前で床に寝転ぶなど問題行動を起こす場面を想像すればまだ可愛らしいと思える。これが30~50歳の男性だと想像することすら躊躇ってしまう。
床に寝転ぶだけで足りなくなった3~5歳が抱きついてきたら?お尻を触ってきたら?看護師とて許容範囲はあるので、このあたりで怒り出す人がいるかもしれないし、それでも可愛いと言う人もいるかもしれない。しかし、30~50歳の男性が抱きついてきたり、お尻を触ってきたら、ほとんどの看護師は拒絶し嫌悪を感じるだろう。
こういった嫌悪があるとやはり注目されない側にも問題というか要因はあるのではないか?と思ってしまう。しかし、行動療法ではそういったとらえ方はしないのである。個人攻撃の罠に陥ってしまうことから、機能分析から問題行動の背景を捉えていき、対策を考えるのである。
患者さんの問題行動の背景には、問題行動によって注目の機能が獲得されることがある。
誰でも暇なときには刺激が欲しいだろう。刺激が足りなければ、どこかで満たそうとする、それはそれで人間らしく美しいとも思う。
ただ傍観していても当事者にとっては大問題であると思われるので、応用行動分析を用いて問題行動の修正を行っていくのが、認知行動療法的方略である。
少し脱線するが、私も中高生など暇で何をしたらいいんだろうというときに、バンドに誘われて人前で演奏する機会をもらったときの刺激は最高だったなぁ。注目はある人にとっては嫌子になるかもしれないし、特定の相手だけの注目でないと機能しないこともある。少し目立つことをやり出した私は、それから髪型を他の人と違う感じにした。ビジュアル系が流行っていた時代だったので、グレイやラルクくらいの髪型を目指して毎朝ワックス・ジェルを友に奮闘した。
それで自分のことを良く知っている人にはあたたかい目で見られてよくみんなが声をかけてくれた。「今日もすごいね」「どうやってるの?」とか。上級生・教師には冷ややかな目で見られてよく叱られた。教師から見れば問題行動だと言われるだろうけど、やはり当の本人からすれば問題ではないと思っているし、教師をあまり良く思っていなかったので、聞いたふりをして逃げていたことがしばしばだった。
今思えば注目以外にも「自分はひとりぼっちだ」という思いからの逃避もあったと思う。その当時は決してひとりぼっちではなかったのだが、若かったのでそういった歪んだ認知が色濃く生活にこびりついていた。だから良く知っている人に声をかけられるという好子が最高に心地よく、叱られるという嫌子よりも有意に働いた。
こういった注目行動は思春期という文脈では社会的に理解できるのである。これが30~50歳くらいでやっていると、少し別の目でみられてしまう。
患者にとって適切な注目が得られるようにアセスメントし介入するのが看護師の役割の一つなのではないかと思う。そうすることによって問題行動は減っていくだろうし、個人攻撃の罠に陥らず、患者さんを尊重しながら関わっていくことが可能になるのではないかと思う。
注目を得ようとして問題行動を起こす患者さんに対して気持ち悪いなと思うときがあるかもしれない。それは人間なので仕方ない。しかし患者さんの側面に注目ばかりしても解決には至らないし、嫌々な仕事になってしまうので、行動の機能をしっかり分析し、その患者さんはどのような機能でその問題行動が維持されているのかを考え、患者さん・家族・スタッフとどのように行動を修正していくか考えていく、というのがやはり看護師らしいのである。我慢するのではなく、本質を見極めるということが重要である。
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